「ヨハネの三つの証し」

ヨハネによる福音書1章29-34節

ヨハネ1:19-34には、ヨハネの三つの証しが記されています。①「わたしはメシアではない」という証し、②イエス様を指して「この方こそ神の子である」という証し、③「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」との証しです。この三つの証しは、私たちキリスト者にとって大切な証しです。
私たちの歩みでは、イエス様ではなく、人に注目が集まり、人が素晴らしいかのようになってしまうということはあり得ます。結果、おかしな方向に向かってしまうのです。私たちはそうならないように、常に自分たちを含め、人ではなく、イエス様を指し示していく必要があるのです。自分たちはメシアではないとはっきりと告白する証しです。
加えて、イエス様を指して「この方こそ神の子である」という証しは私たちキリスト者にとって、証しの中心です。初代教会のクリスチャンたちは公に自分がクリスチャンだということが言えず、人目を忍んで、信仰を続けてきました。その時にお互いに「自分はクリスチャンです」ということを表してきたのが、魚の絵でした。ギリシア語では、魚のことを「IXTVS」(イクトゥス)と言います。このイクトゥスのスペルをそれぞれ頭文字にして、文章を作ると、I(イエトゥス)X(クリストス)T(テウー)V(フィオス)S(リーテル)となります。これは「イエス・キリスト、神の子、救い主」という意味になるのです。それゆえ、初代教会のクリスチャンたちは、魚の絵を描くことで、自分たちは、イエスこそ、キリストであり、神の子、救い主であるということを表明していったのです。キリスト者にとっての最初の信仰告白は、まさにイエス・キリストこそが神の子であり、救い主であるということを表明することでした。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という証しについても考えていきたいと思います。このことは、二つ目の証しである「イエス・キリストこそ、神の子である」という証しの先に、いつも見ていかなければいけない証しです。イエス・キリストは、神の子であり、私たちの救い主です。そして、そのように私たちの救い主となるために、イエス様は世の罪を取り除く必要がありました。そのことのために、イエス・キリストは十字架に向かわれなければいけなかったのです。そのようにして、私たちは「イエス様こそ、神の子である」ということの先に、十字架の出来事を見ていくのです。
私たちは時にイエス様を神の子、救い主と受け止めているのですが、そのイエス・キリストの十字架が見えていないことがあります。そして、そんな私たちというのは、どこか信仰が定まっていないのです。その理由は色々あるかも知れません。しかし、しばしば、私たちは自分の罪の問題が分かっていない時、見えていない時、私たちの中でイエス様の十字架がぼやけてしまうことがあります。そんな私たちが、自分の罪や限界や弱さを受け止めながら、それでもなお、私がイエス様に赦され、受け入れられ、私のためにイエス様が十字架に向かわれたことを知る時、イエス様の十字架が心に迫ることがあるのです。

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