「教会で育まれていく」
エフェソの信徒への4章7-16節
エフェソ4:11-13には、主が私たちを、使徒だったり、預言者だったり、福音宣教者だったり、牧者だったり、教師だったりと、様々な働き手として立ててくださったことが記されています。そのように、私たちは、主からそれぞれの働き、役割を託されたのです。私たちはそれぞれ別々の働きがあり、歩みがあるのですが、そんな私たちは共にキリストの体である教会を造り上げていくのです。そして、そのように教会を造り上げながら、一つのものとなり、互いに成熟した人間として、成長していくのです。ここには、まさに私たちが「キリストの教会で育まれていく」ことが書かれているのだと思います。
今の時代、様々な声があります。そのような声に対し、私たちは時に、惑わされたり、もてあそばれたり、引き回されたり、いつの間にか、すっかり捕らえられ、身動きが取れなくなってしまったりということがあるのではないでしょうか。「自分は大丈夫」と考えている人のほうが危なかったりすることもあるかも知れません。私は自分自身と思う時に、ともすると、私たちを誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりしてしまう「未熟さ」や「幼さ」を未だ抱えているのではないかと思います。また、この時代にあって、いつの間にか、がんじがらめに捕らえられ、本当の自分さえ見失ってしまいそうになる…。そんなこともあるのではないかと思います。そんな中、エフェソの信徒への手紙の言葉が心に迫ってくるのです。
ただ一つ思うことがあります。この時代の中、周りの声にもてあそばれたり、引き回されたりしないように、また、捕らえられてしまわないようにということを思うのですが、そのために私たちが難しいことをあれこれ考えたり、知恵を身につけたりしなければならないのかと言えば、エフェソの手紙が語っていることは、そういうことではないのではないかということです。私たちが惑わされないため、事柄を見抜くために、様々なことを学習することや色々なことの研鑽を積んで、事柄の本質を見抜く知恵を育むことは大切なことです。しかし、聖書が何より呼びかけていることは、私たちが神の愛に生かされることなのだと思います。私たちが何より、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストの十字架と復活、そのことに表された神の愛と真実を知り、そのことに心砕かれ、解放され、癒されながら、その神の愛を私たちの生きる軸として歩もうとしていくことです。その愛を信じ、その愛に留まり、繋がり続けていく時、私たちの歩みは確かにされていくのです。周りの声に惑わされたり、流されそうになったりすることがあったとしても、一番肝心な部分では大切なことを見失わずに、いざという時には自分を踏みとどまらせることができるのだと思うのです。
このエフェソの手紙の呼びかけに教えられ、励まされていきたいと思います。迷ったり、悩んだり、そんなことばかりある時代です。何が正しいのかも分からなくなってしまいそうになります。そんな時代だからこそ、神様の愛に繋がり、その愛を軸として共に歩んでいきたいと思います。そのようにしてキリストの教会で共に育まれていきたいと思うのです。