「アハズとヨセフ」

マタイによる福音書1章18-25

本日の招きの言葉であるイザヤ7章には、アハズという人物が登場します。アハズは南ユダ王国の王様です。アハズの父は、ヨタムで祖父はウジヤでした。二人とも主の目にかなう正しいことを行なった王様でした。これに対し、アハズは「主の目にかなう正しいことを行なわなかった」と聖書には書かれています。お父さんやお爺さんと違って、アハズは何でそんなふうになってしまったんだろうと思います。しかし、ある註解書ではアハズについて「今日、多くの人は、アハズを悪いというより、弱いという見方をする」(ティンデル聖書註解P.310)と書いています。アハズは、王様として、たくさんの過ちを犯し、南ユダ王国の行く末を大きく狂わせてしまいましたが、それというのは、アハズが悪い人だったからではなくて、アハズが弱い人だったからだというのです。そんなアハズの姿を見ていく時、それというのは、私たちも問われているんじゃないかと思います。私たちも時に、日々の歩みの中で、目の前の問題にすぐにアタフタして、その場しのぎの解決を求めてしまうということがあるのではないかと思います。
アハズ王の時代から500年余りが経ちました。ナザレという田舎町にヨセフという大工がいました。ヨセフはマリアという女性と婚約していました。ですが、ある時、とんでもない問題が発覚します。マリアが妊娠していることが明らかになったのです。それは全て神様の御業でした。しかし、この時のヨセフはそんなこと知りません。ヨセフは悩み考えた末、マリアと「ひそかに縁を切ろうと決心した」のでした。
アハズとヨセフは置かれている立場も違いますし、向きあわされている問題も違っています。しかし、彼らは共に目の前の大きな問題と格闘していました。その問題に悩みながら、他の誰にも言えないような、分かってもらえないような思いを一人でひそかに抱えていたのです。そして、自分なりに良かれと思うことをしようとしていたのでした。
聖書を読む時、アハズは悪い人で、ヨセフは正しい人というイメージを持つことが多いと思います。ですが、アハズもヨセフも根本的な部分で同じものを抱えていたんじゃないかと思います。同じように悩み、迷いながら、必死になって、自分なりにどうすれば一番よいのかということを考え、選び取っていこうとしていたのです。ですが、一人だけで悶々と考えて選び取っていこうとするものは、神様が願っている方向とは違うもので、このままではおかしな方向に向かってしまいそうでした。私たちもそういうことがあるのではないかと思います。そんなアハズやヨセフに対して、神様は「インマヌエルの神」を指し示されました。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。神様は、アハズにも、ヨセフにも、「あなたは一人じゃないんだよ」ということを呼びかけられたのです。「あなたは一人じゃない。神様が共におられる。神様はあなたがひそかに抱えている問題も、課題も、あなたの思いも知っておられる」と呼びかけてくださったのです。そのことのしるしとして、インマヌエルの神、イエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったのでした。

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