「この方こそ、待ち望んでいた主」
ルカによる福音書2章22-38節
聖書はシメオンについて「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(ルカ2:25)と紹介しています。聖書がそんなふうに書いているのですから、本当に信仰があつく、正しい、素晴らしい人だったのだろうなと思います。ただ、そんなシメオンにとってみれば、シメオンが生きた時代というのは、心痛めることがたくさんあったんじゃないかと思います。この時代、ローマ帝国が世界を支配し、イスラエルの国もそのローマ帝国の後ろ盾を借りて、王様になったヘロデが君臨していました。このヘロデというのは、とかく、血なまぐさいエピソードがあって、兄弟だったり、家族を殺したりして、王様にまでのし上がった人です。シメオンはそんな時代に生きながら、たくさん、心痛める経験をしてきたのだと思います。しかし、それでも神様を信じ、神様の救いの業を待ち望み続けました。そんなシメオンの姿を見ながら思うのは、「希望を待ち望んで生きる」ということです。まさに、シメオンは様々な思いを通らされながらも、主を見上げ、主にある希望を待ち望んで生きた人だったと思います。ローマ8:24-25には「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とあります。ここには「『希望を待ち望んで生きる』ということは今見えることだけを見ていく歩みではないんだ」ということが記されています。シメオンはまさにそのように希望を見つめながら歩んだのだと思います。
アフリカにこんなことわざがあるそうです。「一個のマンゴの中にある種は数えることができる。しかし、一粒の種の中にあるマンゴは数えることができない」。マンゴは一つの実に一個の種しかありません。ですから、一個のマンゴの中にある種は一個だというふうに誰でも数えることができます。ですが、そのように一個のマンゴから取り出した種を土に植えた後、そのマンゴの種から芽が出て、木となり、やがて、実がなっていった時、その数は数えることができません。このことわざは、私たちに目の前の現実だけを見つめるのではなく、目には見えない希望を見つめることを教えてくれます。一個のマンゴの中にある種は、そのマンゴをその場で剥いて、種を取り出せば、すぐに確認することができるわけです。しかしながら、その種を開いたとしても、マンゴの実が出てくることはないのです。種の可能性を信じて、土に植え、その種が成長するのを、忍耐をもって待ち続けた時、種の中に秘められた命の確かさを知ることができるのです。
今の時代というのは、何でもすぐに答えを出してしまうことがあるんじゃないでしょうか。それほど忙しい時代ですし、私たちは一つ一つのことに丁寧に向きあう余裕も持てなかったりします。そんな私たちは、一見、価値が何もないように思える「小さな種」に命の真実を見出し、希望を見出し、その希望の種を丁寧に育んでいこうとしていくことができるでしょうか。改めて、希望を待ち望んで生きることの大切さを思います。