「捕らわれている人に解放を」
ルカによる福音書4章16-30節
本日の箇所は、イエス様がご自身お育ちになったナザレの会堂で、安息日に聖書の御言葉をお読みになったという箇所です。その時、イエス様がお読みになったのがイザヤ書61章の御言葉でした。そして、その御言葉をお読みになった後、人々に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)とお話になったのです。イザヤによって預言されていた出来事がイエス様が来られることを通して実現したのです。
イエス様の宣言は、人々が待ち望んできた解放と救いがイエス様を通して実現しようとしていた出来事でした。しかし、人々は、イエス様のメッセージを受け入れようとはしません。それどころか、イエス様とのやり取りの中で、最終的にイエス様に対して憤慨し、イエス様を町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとまでしたのです(4:28-29)。「何でこんなふうになってしまうのだろう」と思ってしまいます。まさにここには色々なことの中で、いつの間にか肝心なことが見落とされ、向かうべき方向がおかしな方向に向かってしまった…。そんな人々の姿が表されているのではないだろうかと思います。そういう彼らというのは、一言で言うなら「恵みを取りこぼしてしまった人々」なのだと思います。
本日の箇所で注目したいのは、一番最初に「皆はイエスをほめ」(4:22)と書かれていることです。人々は最初、イエス様の言葉を聞き、その言葉をほめたのです。加えて、イエス様から聞いた言葉を恵み深い言葉だと受け止めていたことも記されているのです。言うなれば、人々は最初、イエス様の御言葉を好意的に受け止めていたのだと思います。しかし、そこから彼らの態度は変わっていきます。人々はイエス様の言葉を最初喜んで受け止めていたはずだったのですが、その後、色々考えるのです。そして、言い出したのは、「この人は所詮ヨセフの子ではないか」ということでした。それから、人々の受け止め方はだんだんと変わっていきます。最初、イエス様の言葉を好意的に受け止めていたはずなのに、態度は変わり、「あいつは、ヨセフの息子じゃないか。所詮、大工の息子じゃないか。そんな奴が何を言っているんだ」と言い出していくのです。結果、イエス様に対し、心を閉ざしてしまうのでした。そんな人々の態度に、イエス様は嘆きながら、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(4:24)と言います。いくら預言者が神様の言葉を語っても、故郷では軽んじられてしまうんだとおっしゃったのです。ナザレの人々がせっかくの恵みを取りこぼしてしまったのは、彼らの中にあった高慢さ、イエス様を見下す思い、軽んじる思いでした。ですが、考えてみたいのは、彼らナザレの人々も、これまで周りからそんなふうに見下されたり、高慢な態度で接してこられ、傷ついたりしてきたんじゃないかということです。そんなナザレの人々の姿に、ナザレの人々が色々なこと、色々な思いに縛られているんじゃないかと思わされます。その縛りが彼らの眼差しを狭め、イエス様の恵みを受け取れなくさせているんじゃないかと思います。イエス様はまさに私たちをそういう縛りから解放してくださるために来てくださったのだと思います。