本日のローズンゲンの御言葉です。

「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。」詩編54:8

「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」マルコ12:42

昨日16時10分ごろ、石川県能登地方で最大震度7の地震が発生しました。地震被害により犠牲になられた方、今も大変な状況で過ごしておられる方に慰めと必要な支援、助けがありますようにと祈ります。

本日の箇所には、次のように記されています。

「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」

この御言葉は、やもめの献金と呼ばれる箇所の一節です。イエス様が会堂の賽銭箱の向かいに座って、人々が次々に献金を入れている様子を見ておられました。大勢の金持ちがたくさんの献金を献げていましたが、その中で一人のやもめが通りかかり、レプトン銅貨二枚を入れたとのです。その様子を見ていたイエス様は弟子たちに言われました。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(マルコ12:43)

明らかに金額としては少ないはずの献金ですが、そんな彼女の献げ物をご覧になられ、彼女が「だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。イエス様はさら「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12:44)と言われました。レプトン銅貨二枚は、文字通り、彼女なりの精一杯のささげものでした。私はこの箇所を読む時、「二枚」という記述が心に留まります。一枚ではないのです。それは彼女にとって全財産の二枚でした。二枚という選択がある場合、「今はとりあえず、一枚だけにして、もう一枚はまた次の機会にしておこう」という思いになったりしなかったろうかと思います。二枚を献げる場合、一枚献げることにまさる葛藤があったりするのではないかと思うのです。しかし、その一方で思います。このやもめは、誰よりも自分が生かされているのは、自分の力ではなく、神様に養われ、生かされ、守られていることを分かっていたのではないでしょうか。貧しさの中、大変な思いを通らされてきた彼女だからこそ、そのようなことを誰よりもよく理解していたのだと思うのです。それゆえ、このやもめは、神様の御前に銅貨二枚を手離し、すべてを献げることができたのではないかと思うのです。マタイ5:3の有名な山上の説教の御言葉を塚本虎二がこんなふうに訳しています。「ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち”、天の国はその人たちのものとなるのだから」。新共同訳聖書で「心の貧しい者」と訳している箇所を「貧しいがゆえに神に寄りすがる者、そうするしかないことを知っている者たち」と訳しているのです。本日のレプトン銅貨二枚を献げたやもめもそうだったのではないでしょうか。この人は、貧しさを経験したからこそ、そのように神様に寄りすがる生き方を学び、誰よりも神に生かされていることを知っていたのだと思うのです。私たちの周りには、様々な悩み、憂い、迷いがあります。しかし、そのような悩み、憂いの中で、だからこそ、神様を見上げ、神様に寄りすがって歩んでいくことができたらと思います。

 鈴木牧人

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