「イエス様の弟子になる」
ヨハネによる福音書1章35-42節
バプテスマのヨハネが二人の弟子と一緒にいた時、イエス様が歩いておられるのを見かけました。すると、バプテスマのヨハネは、イエス様を指して、「見よ、神の小羊だ」と言いました。その言葉を聞いたバプテスマのヨハネの弟子たちは、イエス様に従っていったというのです。こうして、バプテスマの二人の弟子たちはイエス様に従うことになっていったのです。本日の箇所を読みながら、まず思うのは、この出来事の中で、バプテスマのヨハネは、どういう思いだったのだろうということです。バプテスマのヨハネは、本日の箇所で、イエス様を指して、「神の小羊だ」と言い、二人の弟子たちは、それに従っていきました。ヨハネは彼らに直接的に「イエス様に従っていきなさい」と言っているわけではありません。しかし、実質的にはヨハネに促されて、二人はイエス様に従っていったのだと思います。少なくても、ヨハネは二人を引き留めようとしていませんから、二人がイエス様に従っていくことをヨハネは容認していたのだろうと思うのです。それというのは当たり前のことではないと思います。バプテスマのヨハネは、イエス様が誰かということを他の人よりもよほど分かっていたと思いますから、むしろ、バプテスマのヨハネは自分のほうがイエス様に従っていきたいと思っていたんじゃないかと思ったりもするのです。そのように考えたりする時に、さらにバプテスマのヨハネの心には色々な思いがあったりしたんじゃないかと思うのです。いずれにしても考えたいのは、本日の箇所で、二人の弟子たちがイエス様に従っていく様子を見守るバプテスマのヨハネの思いです。本当だったら、自分がついていきたいという思いさえある中で、これまで自分に着き従ってきた二人の者を送り出していく…。そこにはバプテスマのヨハネの祈りがあったんじゃないかと思うのです。
次週、私は壱岐教会に出かけてきます。壱岐教会にテレビモニターを設置してくる予定です。これまでも何度か壱岐教会に出かけてきましたが、その度に思いますのは、色々な人の思いや祈りに押し出されて、私は壱岐に出かけているということです。飛永先生たちにくれぐれもよろしくお伝えくださいと言ってくださる方もおられます。また、飛永先生たちへの渡し物を託してくださる方もいます。そんなふうにたくさんの方々の思いや祈りに押し出されて、壱岐に出かけているのです。飛永先生たちは、70歳を過ぎて献身をされ、現在、83歳で壱岐の地で福音宣教のため、仕えておられます。そんな飛永先生ご夫妻を覚えて、多くの方が祈っておられるのです。本日の箇所のバプテスマのヨハネの姿を思いながら、どこかその姿に重なってくるように思いました。主に仕え、従っていこうとする人がいる…。本当は自分がそうしたいという思いがある…。しかし、現実的な色々な状況を考えていく時に、自分はそれができない…。そんな中、色々な思いを噛みしめながら、主に仕えようとしていく人を祈りをもって押し出している…。バプテスマのヨハネはそんなふうにして、二人の弟子たちを送り出したのではないでしょうか。そして、今もそんなふうに祈りに押し出されながら、主の業に出て行く人たちがいるのだと思うのです。