本日のローズンゲンの御言葉です。

「エリヤはすべての民に近づいて言った。『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。』民はひと言も答えなかった。」列王記上18:21

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイ6:24

本日の箇所には、次のように記されています。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

ここでイエス様は二つのことを挙げて「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われました。「二人の主人」とは、一方が「神」であり、一方が「富」でした。この御言葉を読む時、印象的な箇所があります。それは、「一方を憎んで他方を愛するか」という言葉と、「一方を親しんで他方を軽んじるか」と言葉の違いです。「神」と「富」、どちらかに仕えていく歩みでも、色々な仕方があるんだなということを思います。明確に片方を拒み、片方だけを愛し、追い求めようとしていく歩みもあるのだと思います。しかし、それだけではなく、何となく、片方に親しんでいき、もう片方のほうを軽んじてしまうという仕方で仕えていくということもあるのだと思います。特に考えさせられたのは、「一方を親しんで他方を軽んじる」という姿です。この言葉からイメージするのはどんな姿でしょう。たとえば、この世の「富」に心が引きずられ、どんどんと「神様」のことを軽んじてしまう様子をイメージできるかも知れません。「神様」のことを否定しているわけではないのですが、この世の「豊かさ」に心惹かれて、いつの間にか「神様」のことを軽んじてしまっているのです。そんなふうに本日の御言葉から「富」に親しみ、「神」を軽んじる者の姿がイメージできます。ただ、この言葉からイメージできるのはそれだけではないかも知れません。ある人がイエス様に出会い、自分の人生観が変えられたと話していました。その人がこんなことをおっしゃっていました。

ただ、一方で思い出したことがありました。ある人がイエス様に出会い、その出会いによって大きく変えられていきました。その人がこんなふうに語っていました。

「私はこれまで『豊かさ』だったり『周りからの評価』、『この世における成功』を追い求めていました。ですが、最近はそういうことが、だんだんと『どうでもよいもの』になっています。それより大事なものがあるなと思うのです。仕事に対する向き合い方も変わりました。自分の任された仕事を軽んじているわけではありませんし、与えられた仕事を、誇りをもってしています。ですが、仕事をすることの目的は大きく変わりました」。

その姿も「一方を親しんで他方を軽んじる」という姿なのかも知れません。そんなふうに「一方を親しんで他方を軽んじる」という言葉から、「富」に仕える人、「神」に仕える人、それぞれのイメージができるのではないかと思いました。いずれにしても、この時代、私たちは、どこに根を降ろし、何を第一にして歩んでいくのでしょうか。「あれか」「これか」と物事を簡単に分けられないようなこともあるかも知れません。しかし、私たちの中で「まず、何を中心にし、重んじていくのか」ということは大事なことなのだと思いました。

 鈴木牧人

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