「見なさい。まことのイスラエル人だ」

ヨハネ1章43-51節

 本日の箇所には、フィリポ、ナタナエルがイエス様の弟子となっていった様子が記されています。本日の箇所でイエス様はナタナエルに対し、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(1:48)と言われました。ここで言われた「いちじくの木の下にいる」ということは特別な意味を持っていました。「いちじくの木」というのは、当時のユダヤの人たちにとって、特別な場所で、旧約聖書で「いちじくの木の下にたたずむ」ということは、神の平和の世界に生かされることを象徴していました。このため、当時のユダヤ人の学者たちは、好んで、いちじくの木の下に座って、旧約聖書を学んだり、黙想をしていたそうです。本日の箇所で、ナタナエルが「いちじくの木の下にいた」ということもそういうことだったのではないかと考えられます。ナタナエルは、いちじくの木の下で、旧約聖書の御言葉に思いを馳せたり、その御言葉の前で黙想したりしながら、神の平和を願い、求めていたのです。そして、そんなナタナエルの姿をイエス様が見ておられたということが「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」という言葉の意味でした。
ナタナエルはいちじくの木の下で過ごしながら、どんな思いで過ごしてきたのでしょう。ナタナエルの生きた時代というのは、本当に心痛めること、悲しいことがたくさんありました。神様の平和とはまるでかけ離れた現実があったのです。ユダヤの国はローマ帝国に支配され、人々は搾取され、貧しさに苦しみ、抑圧され、自分たちが信じるものさえもゆがめられてしまっていました。自分たちが本当の意味で自分たちらしく生きることを許してもらえない世界がありました。人々はこの状況を武力によって解決しようとします。結果、ユダヤの国では反乱が絶えることがありませんでした。そんな状況を見ながら、ナタナエルは心痛めてきたのではないかと思います。御言葉が語る平和とはまるでかけ離れて状況を見せられながら、心引き裂かれるような思いにさせられてきたのではないかと思います。そんなナタナエルに対し、イエス様はそんなナタナエルが声をかけられました。私はあなたがいちじくの木の下にいるのを見ていたよ…。そのことを知っているよ…。この時代にあって、色々な思いを通らされる中、それでも、いちじくの木の下で、御言葉に思いを巡らせながら、神の平和を慕い求め、祈っているナタナエルの姿をイエス様はご覧になっていました。そして、そんなナタナエルに対して、あなたこそ、「まことのイスラエル人だ」と語りかけてくださったのです。このことはナタナエルにとっての慰めの言葉だったのだと思います。
 そして、その言葉は、私たちにとっても励ましと慰めの言葉として迫ってくるのではないでしょうか。この時代、私たちの周りには心痛めることがたくさんあります。そのような世界の中にあって、私たちは今日もこうして、教会で御言葉に静まり、御言葉の約束に励まされ、御言葉が呼びかける神の平和の実現に思いを巡らせています。そんな私たちのことをイエス様は見ていてくださるのです。本日の御言葉からそのようなメッセージを聞きます。

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