「カナの婚礼」
ヨハネによる福音書2章1-12節
ガリラヤのカナという場所で婚礼が行なわれました。人々が婚礼の喜びに与っていた最中、トラブルが起こります。人々をもてなしていた「ぶどう酒が足りなくなった」(2:3)というのです。「ぶどう酒がなくなっても、みんなで楽しめばそれでいいじゃないのかな」と思うかも知れません。しかし、ここでぶどう酒がなくなったという出来事は、単にぶどう酒が無くなったということではありませんでした。聖書において、ぶどう酒はしばしば「喜び」や「祝福」を象徴して語られています。本日の箇所で、ぶどう酒がなくなってしまったということは、単にぶどう酒がなくなってしまったということだけではなく、喜びの場所、祝福の場所であったはずの婚礼の場所が、喜びの場所ではなくなってしまいそうになっていたということを意味していました。これまで人々は皆、この場所を喜びの場所に造り上げようと一生懸命していたのだと思います。しかしながら、みんなの頑張りでは「ぶどう酒の問題」をどうすることもできませんでした。この「カナの婚礼」の出来事に表されているのは、私たちが自分たちの力で作り出そうとする喜びの限界ということなのではないでしょうか。しかし、本日の出来事は、ここから始まるのです。人々は最初、自分たちで一生懸命頑張ってぶどう酒を用意しようとしていました。そのぶどう酒は足りなくなってしまいました。しかし、その先に彼らに新しいぶどう酒が与えられたのです。イエス様がその新しいぶどう酒を与えてくださったのです。そして、そのことにより、この「カナの婚礼」の出来事は、「人が作り出す喜びの場所」から、「神様によって与えられる喜びを味わう場所」に変えられていきました。それが、この「カナの婚礼」で表された奇蹟でした。
「カナの婚礼」の記述を読んでいく時に、注目させられる箇所があります。それは、イエス様が最初、客人として、このカナの婚礼に招かれたという記述です。しかし、「ぶどう酒がなくなった」ということをきっかけに、イエス様はお客さんでなくなっていきます。この場所の中心の立場に変わっていくのです。そうすることにより、この場所は変えられていきました。「人が作り出す喜びの場所」から、「神様によって与えられる喜びを味わう場所」へと変えられていったのです。このことに注目したいと思います。私たちもイエス様を、私たち自身のただ中にお迎えしていくということがあります。しかし、どうでしょう。イエス様を私たちの中にお迎えしていても、最初はどこか、単なるお客様のような形で、私たちの心に迎えているということはないでしょうか。そんな中、イエス様のことを心にお迎えしているのですが、実際の歩みというのは、私たちが自分の力で何とかしようと奮闘している…。そんなふうに歩んでいることがあるのではないかと思うのです。そんな私たちが、イエス様を私たちの心にただ迎えるだけでなく、私たちの主として、お迎えしていく時、私たちが作り出す人生の喜びの中心に、イエス様をお迎えしようとしていく時、私たちの喜びの場所が大きく変えられていくのです。私たちが一生懸命作り出す喜びの場所から、神様によって与えられる喜びに生かされる歩みに大きく変えられていくのです。