本日のローズンゲンの御言葉です。

「命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」詩編16:11

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」マタイ16:25

本日の箇所には、次のように記されています。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

この御言葉を読む度に思うことがあります。それは、「命の事柄は、神様の御手のうちにある」ということです。私たちは、私たちなりに、自分の命を守ろう、救おうと日々格闘したりしていることがあるかも知れません。しかしながら、突き詰めて言うなら、私たちは自分の命の事柄に関して、自分ではどうすることもできないことがあるのだと思うのです。命の事柄は神様の御手のうちに置かれているのです。これまで色々な経験を通して、そのことを学ばされてきましたが、私の中で特に忘れられないのは、息子が生まれる時の経験です。息子は未熟児で生まれました。しかも、出産予定日よりだいぶ早い時期に妻が破水をし、救急車で病院に運び込まれることになりました。余りに出産日より早い破水だったので、その時は何とか薬で出産を抑えることになりました。しかし、余りに長く薬で留めることも良くないので、早期の出産をすることになりました。私が息子に対面した時、息子はNICUの保育器の中に入れられていました。たくさんの検査機器が体中につけられている息子を見て、何とも言えない思いにさせられました。そんな中、保育器の外から手を入れて、息子の頭に手を置き、祈ったのが、最初の対面でした。その後も一日一日、息子の成長を心配しながら見守っていましたが、その経験を通して、つくづく思い知らされたのが、「命の事柄は神様の御手の中にある」ということでした。親として何とももどかしい思いを幾度も経験してきましたが、その時のことが、親として子どもに向き合う備えとなっていったのではないかとも感じています。その時の経験を通して、親であったとしても、子どもに対し、どうすることもできないことがあるし、最終的には、この命は神様の御手にあるんだということを思い知らされました。同時に、私たちの思いを越えて、神様が一つ一つのことを取り扱ってくださっていることを身をもって知らされる経験でもありました。それらの経験を通して、親として子どもに対してどう向き合うべきか教えられてきたように思うのです。

息子は今年、大学を卒業することになります。これまでの歩みを振り返ってみる時、まさに全てを神様が守り、導いてくださったと感じています。そんな中、改めて、息子を含め、私たち一人一人が神様に養われ、守られ、生かされているんだなと思います。その神様に信頼し、委ねていくことが、私たちの信仰の基となっていくのだと思います。本日の御言葉を読みながら、改めて、そのことを思いました。

鈴木牧人

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