「神殿を建て直す方」

ヨハネによる福音書2章13-22節

 ヨハネ2:1-12には「カナの婚礼」の記述があります。ガリラヤのカナという村で結婚式が行われました。結婚式というのは、喜び溢れる時、祝福溢れる時です。カナの婚礼もそうだったのだと思います。しかし、この婚礼の最中、問題が起こります。ぶどう酒がなくなってしまったのです。ぶどう酒というのは、人々にとって、喜びや祝福を象徴するようなものでした。ですから、ぶどう酒がなくなってしまったということは、喜びの場所、祝福の場所であるはずの婚礼の場所が、もはやそういう場所とは呼べなくなってしまったということを意味する出来事でした。
この「カナの婚礼」の出来事と、本日の「宮清め」の出来事を繋げて読んでいく時、考えさせられます。本日の箇所の舞台となっているのは、神殿です。神殿とは、私たちが神様を礼拝する場所です。そのような礼拝を通して、私たちは神様と出会い、交わりをもつのです。その礼拝の中で、私たちは神様を讃美し、神様の栄光をほめたたえます。まさにその場所は喜び溢れる場所、祝福溢れる場所です。しかし、イエス様は神殿の様子を見て、嘆き、悲しみ、憤られました。それは、神殿が、もはや、そのような喜びが無くなってしまっていたからでした。人々の喜びの声、讃美の声にまさって、商売人たちの声が溢れ、お金が払えないために礼拝さえさせてもらえない人々の失望のため息で溢れていました。そんな中、本来、かけがえのない喜びの場所であり、祝福の場所だったはずの神殿が、もはやそう呼べない状況になってしまっていたのです。
「カナの婚礼」の出来事が喜びの場所、祝福の場所でなくなってしまったのは、「ぶどう酒」が無くなってしまっていたからでした。それでは、本日の「宮清め」の状況の中で無くなっていたものとは何でしょう。マルコ11:17では、イエス様が宮清めの際、「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである」(11:17)と語ったことが記されています。この御言葉から言うなら、この神殿で無くなってしまっている肝心なものは「祈り」と言えるかも知れません。あるいは、本日の箇所では弟子たちがイエス様の姿に「『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ2:17)と書かれています。この言葉から言うなら、「神様の家のことを思う熱意」と言えるかも知れません。いずれにしても、神殿を喜びの場所、祝福の場所たらしめる肝心なものがなくなってしまっていました。祈ることもなく、「神様の家を思う熱意」も見失われている中で、もはやこの場所は、喜びの場所、祝福の場所とは呼べない状況になっていたのです。
 せっかくの礼拝の場所、神様との出会いの場所に、肝心なものが失われて、その場所が喜びの場所、祝福の場所とは呼べなくなってしまう…。教会という場所もそんなふうになってしまうことがあるかも知れません。あるいは、私たち一人一人の信仰の歩みでもそんなことがあるかも知れません。そんな中、本日の箇所から呼びかけられている問いかけがあるのではないでしょうか。

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