「何が人間の心の中にあるか」
ヨハネによる福音書2章23-25節
イエス様は、過越祭の間、人々の前で様々な御業をなされました。すると、その御業を見た人々は、イエス様のもとに集まってきます。ですが、イエス様は彼らを信用されませんでした。何が人間の心にあるかをご存じだったからです。本日の箇所を読みながら、何とも言えない思いにさせられます。私たちがイエス様のような思いにさせられていたとしたら、どうでしょう。目の前の人に対して精一杯尽くして、関わろうとしているのです。ですが、そんなふうに関わりながらも、相手の色々な態度や振る舞いをみせられ、「ああ、この人のことは信用できない」と思ってしまう…。そんな思いを通らされたら、私たちは本当にショックなのではないでしょうか。「自分がしてきたことは一体何なんだったのだろう」とガッカリしてしまうかも知れません。人に対して色々してきたことも何か馬鹿らしく思えてしまったり、「もう、関わりたくない」と思ってしまったりするかも知れません。そんなふうに、私たちがイエス様のような思いにさせられたとしたら、ショックだと思いますし、それまでしてきたことの情熱も冷めてしまうんじゃないかと思ったりするのです。
ただ「それが現実だよ」と思う人もいるかも知れません。「人間なんてね、信用できない。口ではあれこれと立派なことを語っていたところで、本当のところはどうかなんて分からない」。そんな声が聞こえてくるかも知れないと思うのです。本日の箇所から、私たちはどんなメッセージを聞くことができるでしょう。ある聖書の御言葉が心に迫ってきます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
ヨハネによる福音書で、この二つの御言葉が繋がって書かれていることを覚えていきたいと思います。イエス様は、人々の心の中にあるものをご存じでした。そして、そのような人の心の中にあるものをご覧になった時、信用することはできないと考えられました。しかし、それにも関わらず、その後で語られた言葉が「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉だったのです。神はそれでも、この世を愛し、私たち一人一人を愛してくださっている…。そして、独り子であるイエス様を遣わしてくださった…。そのイエス様を通して、私たちを救おうとされたのです。
私たちは、ある意味、本日の御言葉から、わきまえ知らなければならないことがあるのだと思います。本日の御言葉にあるように、私たち人間の中には、イエス様からご覧になられて、「信用できない」と言われても仕方のないような弱さ、もろさ、あやふやさを抱えているのです。どんなに素晴らしい人でもそうなのだと思います。ですが、そのことをわきまえ知るからこそ、私たちは「私たちが見上げるべき方はイエス様なんだ」という思いにさせられていくのです。目の前の人ではなく、イエス様を見上げ、「イエス様を求め、イエス様に信頼し、期待していくことが大事なんだ」というこことをわきまえ知らされていくのです。そこに私たちの揺るがない基はあるのです。