「みんながあの人の方へ行っています」
ヨハネ3章22-30節
バプテスマのヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で論争が起こりました。論争の後、弟子たちはバプテスマのヨハネのもとに来て「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」(ヨハネ3:26)と言いました。これに対して、バプテスマのヨハネは「ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(3:27-30)と言って弟子たちを諭したのでした。バプテスマのヨハネの言葉は、弟子たちにとって、色々な思いを整理したり、大切なことを再確認させられていく言葉だったのではないでしょうか。
本日の箇所のバプテスマのヨハネと弟子たちのやり取りをよくよく見ていきたいと思います。バプテスマのヨハネは、弟子たちにまず、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言われました。バプテスマのヨハネが、弟子たちのまず語ったことは、「天を見なさい」ということでした。私たちが受けているものは、みんな、天から与えられており、天から与えられなければ、私たちは何も受けることができない…。その天を見なさいと呼びかけたのです。
加えて、自分を花婿の介添え人にたとえて語り、イエス様は花婿であることを語りました。介添え人の役割というのは、人々を花婿に出会わせ、結ばせていく役割であり、そのように、人々が花婿と出会っていくのは、喜ばしいことだと説明したのです。ここで印象的なのは「喜ぶ」という言葉です。イエス様に対する不満で一杯になっている弟子たちに対し、「私はむしろ、このことを喜んでいるんだ」と語ったのです。
そのように、バプテスマのヨハネと弟子たちとのやり取りの中で、印象的なのは、「天を見なさい」というメッセージ、そして、「私は喜んでいるんだよ」というメッセージでした。この二つのメッセージが、本当に大切だなと思いつつ、すぐに自分の中で見失ってしまうものでもあるなと思いました。自分の中で目の前の色々なことで奔走していますと、ついその目の前のことばかりに目が奪われたり、目の前の人のことばかり見ていたり、そんなことがあるように思うのです。そんな中、大切なことを見失ってしまいそうになることがあります。また、すぐに「喜び」を見失ってしまうことがあります。神様がせっかく与えてくださった「喜び」を見失い、不満や呟き、躓きの思いでいっぱいになってしまっているのです。そんな自分を思います時に、自分にとっても、本日のバプテスマのヨハネの弟子たちのように、色々な思いを整理していくことだったり、大切なことを再確認していくことというのが、本当に必要だなと思わされるのです。