「わたしもその中にいる」

マタイ18章15-20節

本日の箇所には、ある兄弟が罪を犯す中、その兄弟に一生懸命関わろうとしていく人々の姿が記されています。この人がどんな罪を犯したかは分かりませんが、この人が犯した罪のせいで、その人自身が実際に被害を被ったり、傷つけられるような経験をしてきたのだと思います。そんな相手に対して、関わっていこうとするのです。しかし、相手は自分の過ちに気づくこともなく、そのまま群れを去っていってしまうのです。その状況を想像しながら、本当に複雑な思いにさせられます。この間、関わっていった人たちはどんな思いを通らされてきたでしょうか。ただでさえ、相手の過ちによって自分が傷つけられているのです。それでもその人を「兄弟」と見なして関わっていくのですが、その思いは伝わらず、相手は自分たちのもとを去ってしまうのです。自分たちの無力さを突きつけられたり、やるせない思いにさせられていったのではないでしょうか。
本日、東日本大震災をおぼえる礼拝で、この聖書の箇所を選ばせていただきました。震災当時、被災地支援の関わりをしながら、つくづく思わされたことがあります。それは「共に歩むことの大切さ」と「共に歩むことの難しさ」です。震災の課題に向き合わされながら、共に課題に向きあい、支えあい、励ましあうことの大切さを経験してきました。しかし同時に、「共に歩むことの難しさ」も知らされてきました。その当時のことを振り返りながら、本日の箇所が迫ってくるのです。震災当時の状況というのは、本日の御言葉にあるような「罪を犯した相手に関わる」ということわけではありません。ですが、お互いに違う背景や思い、考えを持つ相手と共に歩んでいかなければならない状況がありました。そんな中、自分の思いを一生懸命伝えながら、御心を追い求めて、事柄がよい方向に向かうために色々と努めるのですが、相手に思いが伝わらなかったり、互いに一つになれないということがありました。そのようなことを思う時、本日の御言葉が心に迫ってくるのです。
本日の箇所には、「共に歩むことの難しさ」を痛感させられながら、たくさんの失望や悩みや痛みを経験してきた人の姿が記されています。イエス様はそんな人たちに対して、「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」と呼びかけました。あなたの周りに、あなたと同じ思いを抱き、同じ信仰でもってイエス様を見上げている兄弟姉妹が一人でもいて、その人と心を合わせ祈るなら、その人と一緒に祈ることから始めなさい。そこに必ず私はいて、そこから御業を始めるんだと約束してくださっているのです。
 震災の状況でなくても、様々な課題に向き合わされながら、共に歩んでいこうとして、難しさを経験したり、自分たちの無力さを突きつけられたりすることがあります。そんな中、何より、本日の御言葉にあるように、たとえ、二人、三人という小さな群れであっても、心を一つにし、イエス様の名のもとに集まり、そのイエス様に期待しながら、聞きながら、歩んでいきたいと思うのです。まず、そこから始めていくことができたらと思うのです。

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