本日のローズンゲンの御言葉です。

「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」詩116:12

「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」ルカ17:12,15-16

 本日の箇所には、次のように記されています。

「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」

イエス様たちがサマリアとガリラヤの間を通っている時に、ある集団に出会いました。彼らは重い皮膚病を患っていました。多くはユダヤ人の集団でしたが、その中にサマリア人もいました。当時、ユダヤ人とサマリア人というのは、相容れない関係でした。しかし、そんな彼らがお互いの立場を超えて、一つの群れとして、生活を営んでいたのです。なぜでしょうか。おそらく、そうするしかなかったからだろうと思います。彼らのように重い皮膚病を患った人たちは、病にかかると、社会から隔離され、それまでの様々な関係を完全に断ち切られてしまいました。彼らは公の場所に出てくることが許されなかったのです。そんなふうに、彼らは、病を患ったことで、社会から完全に断絶され、周りから心ない偏見や差別を受けていたのでした。そんな人たちが、10人共に生活していました。もはや、ユダヤ人もサマリア人も関係なく、共に過ごしていたのです。皮肉な状況と言えるかも知れません。彼らは、重い皮膚病という病を通して、これまで乗り越えることができなかったサマリア人とガリラヤ人の壁を乗り越えることができたのでした。そして、彼らは共にイエス様に「わたしたちを憐れんでください」と叫んでいたのでした。この時、彼らは特別な結びつきでつながっていたのではないでしょうか。彼らは病を経験したがゆえに、出会ってきたものもたくさんあったのではないかと思います。そして、病のゆえに、サマリア人、ユダヤ人の隔てを超えて、一つにされていたのだと思います。そして、そんな彼らが同じ主を呼び求め、主に出会い、その病を癒されていったのでした。

私たちもそんなふうに主に出会うことができたらと思いました。今の時代、本当に分断や争いが絶えることがありません。多くの人たちが、それぞれの状況で飢え渇きを覚えていたり、困窮したりしています。そんな中、この10人の姿のように、私たちがもし、飢え渇きや困窮を覚える中にあって、そういう思いを知っているからこそ、繋がりあえることができたなら…。自分の痛みと同じ痛みを抱えているんだということに思いを馳せながら、互いに共感し、敬い、寄り添うことができたなら…。そんなふうに思います。そうするなら、この世界は大きく変えられるのではないでしょうか。自分自身をかえりみる時、中々、そうすることができない弱さや狭さが自分にあることを痛感します。ですが、本日の箇所の十人の姿に、この世界にあって、私たちに大切にしていきたい「平和のイメージ」が表されているのではないかと思いました。

鈴木牧人

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