「シカルの井戸べ」

ヨハネによる福音書4章1-29節

本日の箇所は、サマリア人の女性とイエス様とのやり取りが記されています。この女性は、過去に五回も結婚を繰り返し、現在は一人の男性と同棲をしていました。どんな理由でそうなったのかは分かりません。しかし、そのような彼女は、どうやら町の中で浮いていた存在でした。彼女が井戸に水汲みに訪れたのは、正午頃だったと記されています。当時、人々は水汲みと言えば、日差しの強い日中は避けていました。彼女がそのような時間にやってきていたのは、町の人たちに会いたくなかったからだと思います。ですが、そういう生活というのは、彼女にとって、しんどかったと思います。本日の箇所の4:15を読みますと、彼女はイエス様とのやり取りの中、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)と語っています。私はこの言葉に彼女の切実な思いが込められているのではないかと思います。人目を避けるようにして毎日を過ごしている…。それはある意味、気楽なところもあったかも知れませんが、孤独や寂しさを痛感することもあったのだと思います。そして、そのことを最も痛感していたのが、水汲みの時間だったのではないでしょうか。炎天下の下、しんどい思いをして水汲みをしながら、「何で自分はこんなことをしなければいけないんだろうか」という思いにさせられ、「もうこんなのは嫌だ」と思ったりしたのではないかと思います。水汲みの時間とは、彼女にとって、そういう時間だったのと思います。彼女にとってしんどく、誰とも関わりたくないと思っている…。そういう時間でした。そういう時に、彼女はイエス様に出会ったのです。
イエス様は、まず、彼女に対して、「水を飲ませて下さい」(4:7)と声をかけました。しかし、彼女は、突然、イエス様からそんなふうに声をかけられ、戸惑ってしまいます。そして、イエス様に対して、最初距離を置いた感じで関わろうとしています。ですが、そんな彼女はイエス様とのやり取りの中で、少しずつ変えられます。そして、イエス様の愛に捕らえられていくのです。本日の箇所には、そんなイエス様と彼女とのやり取りが記されています。中でも注目したいのが、ヨハネ4:11の言葉です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」(4:11)。彼女のこの言葉というのは、まさにこの時の彼女の思いと重なってくるのではないでしょうか。彼女は、この時、心の中に井戸の水のように「容易には汲み出すことができないもの」があったのだと思います。これまで彼女が歩んできた色々な出来事の中で、積み重ねられてきた色々な思いや痛み、そういうものが心の奥のほう、深い深い部分にあって、まさに井戸が深くてくみ取れないのと同じように、彼女の心の奥にも触れることができないということがあったのです。イエス様はそんな彼女にやり取りを通して、心の中を少しずつ、掘り下げていかれました。最初は何気ない、「水を飲ませて下さい」との呼びかけから始まって、彼女の心をだんだんと掘り下げていき、そして、彼女の心から命の清水を溢れさせていかれたのです。その様子に「ああ、これがイエス様の取り扱いなんだな」と思います。

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